桜の木の下で君に告げる<20>


 事が終わった頃には深夜になっていた。
 ぼんやりとするを風呂場に押し込めて髪と体全身を洗ってやった百は、浴槽に肩まで浸からせながらも自分も体を流した。適当に体を拭いて腰にタオルを巻き、今度は彼女の体も拭いた。丁寧にパジャマを着させた後、ドライヤーで乾かしてから寝室へと促した。
 自分も用が済み寝室へ向かえば、間接照明だけを付けた彼女はベッドに腰掛けていた。
 生気が感じられない。
 無理もない。全てが穢されてしまったわけではなさそうだったが、あんなことをされたのだ。怖かったに決まってる。傷つくに決まってる。

「ほら、おいで。まだ落ち着かないなら、こうやってギュッてしてるから」

 を抱き上げて自らの膝の上に向かい合って座らせる。目と目が合いにっこりと微笑む百に、は涙が溢れた。

「……おねがい、抱いて……っ!」
「今日はダメだ」
「やってよ……もうどうにかなっちゃいそうなんだよ!」
「今日は抱かない。“オレで消毒”したってが苦しくなるだけだ。また思い出しちゃう……だから」

 百はTシャツを脱いで枕元に置くと、のボタンをゆっくりとひとつずつ外していく。

はこれ以上脱がないで? ほら、こうするだけでも……オレの体温、感じるでしょ? オレを感じて。オレだけを感じていればいいから」




 ーーこの一連の事件は報道されることはなく、ツクモプロダクションが潰れることはなかった。ZOOLは健在だし、所属俳優もテレビに出演し続けている。だが、社長が変わったと一部ニュースで報道されていた。理由はこうだーー「月雲了前社長・現会長が海外で歌やダンスを勉強したい」からだと。要するに、金と権力で事件をもみ消し、海外に逃亡したのだ。
 百は、の平凡アイドル契約を現社長に取り下げてもらい、ツクモプロダクションとの関係を切らせた。
 これでようやく、普通の生活が送れるわけだーー……。


 朝日がカーテンの隙間から差し込む午前六時台。百が目を覚ますと、隣ですやすやと寝ていたはずの彼女がいなかった。シーツを触ってみれば、若干、温もりが残っている。時間はさほど経っていないということだ。耳を澄ませば、彼のよく知っているRe:valeの曲で。

〜! おっはよ〜〜ん!」

 百はベッドから飛び降り、走ってリビングへと向かった。ドアを開けると、ほんのりと焦げたトーストの匂いと、エプロン姿でフライパンを握るの姿があった。

「おはよう。いつものメニューでいい?」
「うん、何でもオッケー! が作ってくれるものなら!」
「ふふっ……たまに失敗作あるのに?」
「う〜ん……。がオレのために一生懸命に作ってくれたんだったら嬉しいよ」
「千斗に習わなきゃ」
「え〜?! だったらオレも一緒にする!」
「“ユキはオレのダーリンだからね!”って?」
「違うから! 違わなくもないけど……違うんだって! 二人きりとかずるいからオレも行くってこと!」
「千斗と二人っきりでずるいっていう意味なんでしょ〜?」
「違うってばー!」

 くすくすと笑うに百もまた笑う。千相手にも嫉妬すると彼女は分かっていないのではなかろうか。モヤモヤしながらも、彼女が笑えば百はつられて笑ってしまうのだ。
 冷めないうちに食べよう。がキッチンからダイニングテーブルへと移動すれば、百もまたいつもの席に座った。手のひらを合わせてから食べ始めると、は目に涙を浮かべて微笑んだ。

「フツーでいいの……フツーでいられることが幸せなんだって改めて思ったよ。“平々凡々”で何が悪いんだ、ってね」

 ここまで言えるように回復してよかった。百は安堵しながら、コショウのかかった目玉焼きを口に運ぶ。カフェオレで喉を潤した後、続けてトーストを頬張った。時刻は午前七時半。支度をして家を出なければならない時間なのだ。
 最後の方はかきこんでむせてしまったが、に背中をさすられながらも完食した百は食器を下げた。一方、は食べ終わってはいなかったが一緒に席を立ち、玄関へと向かう。いつものお見送りだ。靴を履き、振り返った百はこれまたいつもの決まり文句を言うのだ。

「じゃあ、行ってくるね! 行ってきますのちゅー!」
《終》

>>2018/04/26
続編も無事に終わらせることが出来ました。ありがとうございました!