桜の木の下で君に告げる<19>


 仕事を終えた百は寄り道をせずに帰宅した。午後八時。
 彼女の手料理を毎日食べることが、百にとっての楽しみのうちの一つなのだ。仕事終わりの夕食は、特に。疲れ切った体が一瞬で元気になるのだ。「今日のご飯は何かなあ〜♪」とルンルンでエレベーターから降り、玄関のドアノブに触れた。
 ーー鍵がかかっていた。は家にいる時でも鍵はかけるが、彼の帰宅の頃合いを見て鍵を開けておくのだ。開け忘れただけかと軽い気持ちで中に入れば、明かりが一つもなかった。生活音でさえも。嫌な予感がした百は靴を揃えずにリビングへと向かい電気を付ければ、作りおきの料理もテーブルに並んではいなかった。だが、彼女の外出用カバンが見当たらない。寝室や風呂場も覗いたが、やはり、彼女はどこにもいなかった。

「……ってことは、夕方までには帰ってくるつもりで出かけたってことだよね。でも、いない。連絡も入ってない……。マイバッグが玄関に置きっぱなしだから買い物に行ったわけでもないしーー」

 ーーツクモプロダクションか。だが、おかしい。今日はボイストレーニングはないから行かないと、朝食時に言っていたのに。

「……了さんが個人的な用事で呼び出した……?」

 待てよ。彼とは数時間前にスタジオでたまたま会ったばかりだ。「今晩は僕の“ペット”たちに極上な“餌”をあげる日なんだ」と。それを言いにわざわざスタジオに来たりするものか。からかいに来ただけだ、と思っていた。
 引っかかるとしたら月雲了の言葉だ。極上な餌とは一体……。簡単には手に入らないモノでも金と権力で手に入れてしまいそうな人物だ。そんな人物が“極上な餌”という言葉を使うか?
 考え過ぎであってほしい。しかし、結びついてしまうのだ。“極上な餌”イコール自身だということに。
 百は震える手を必死に抑えつつも、スマートフォンを操作して相棒に電話をかけようとした。まさに、その時だった。薄暗いディスプレイが急に明るくなり、コール音が鳴り出した。表示されているのは、狗丸トウマの文字。百は考えるよりも先に応答ボタンを押した。

「ト、トウマ……!」
「百さん……すみません、すみません……っ! 姉さんが……姉さんが……っ!」

 泣きじゃくりながら話す彼の様子に只事ではないと、百はトウマにゆっくり話すように助言する。

「は、はい……姉さんが、危ないんです……!」
「それは、今家にがいないことと関係があるってこと?」
「はい……すみませんっ! 俺も悪いんです……俺のせいなんです……っ! ごめんなさい!」
は今どこだ、どこにいる?!」

 

 トウマが話したことが嘘であってほしいと願わずにはいられなかった。
 百は相棒の千に加勢の連絡を入れ、マンションを飛び出した。場所は港にある廃工場だった。そこなら人が近寄る心配は必要ないし、いざとなれば実行犯を切ればいいだけだ。自らは安全な高台で見物しているというわけか。
 車を運転しながらもあれこれ考える。途中で千と数人のガタイのいい仲間たちを拾い、目的地へと百はアクセルを強く踏んだ。


 本来ならば一斉に中に入る方がいい。だが、忘れてはならない。彼女が遊ばれているということに。
 廃工場に到着し車を止めた百は、千を含めた皆に「外で待機」と命じる。不安げに百を見つめる千に、「困ったら“合言葉”叫ぶから、ね?」と笑い、廃工場へと踏み入れた。
 錆びついた鉄の匂いが鼻先をくすぐるが、周囲を見渡せば内部が意外にも綺麗だ。常日頃から雇われのペットたちが使っていたようだ。気配を消して忍び足で声の方へと近づく百ではあったが、彼女であろう悲鳴には怒りを抑えることが出来ずに走り出した。

「オレの大切なお嫁さんをいじめたヤツはどこのどいつだ!」
「はいはーい、僕でーす」

 目の前に現れたのは、肘掛けのついた椅子に座る月雲了とーー愛しい彼女の痛々しい姿。切り裂かれた服が何があったのかを物語っており、目を逸らしたくなる。それだけではない。の両手足には拘束具がつけられ、足の枷の方には重しと繋がっていた。首にもつけられており、鎖の先は月雲了がしっかりと持っていた。
 彼女の自由は自分の手の中だと言わんばかりに。
 腸が煮えくり返りそうだ。百は次第に冷静さが欠けていき、ポケットから取り出す。

「うっわー、モモ、手に持ってるものしまわないと“アイドルがナイフ持って振り回してた”って記事にされちゃうよ〜?」
「うるさい。構わない。を放せ……こっちに連れてこい」

 顎で合図する月雲了に従って後方で控えていた大柄な男が歩き出す。

「違う。了さんが、だ。あんたは一歩も動くな!」

 百の威圧に男は立ち止まる。

「モモがそう言えた立場にあるのかな〜?? 彼女はこちらにいるんだよ? ほら、も何か言ってご覧よ」

 じゃらん。鎖を引っ張ればの体もその方向へと傾く。顔をあげて喋ろうとはしないに面白くなかったのか、先ほどよりも鎖を強く引っ張った。抵抗をしないの体は床へと倒れ込む。苛立つ月雲了は生ける屍の顎をぐいと掴み、液体を飲ませた。

「さぁ、。しゃべるんだ」
「んぅぁ……っ、了さん……もっとぉ、もっとちょーだい?」
「何が欲しいか、ちゃんと言ってご覧?」
「んっ……了さんのーー。いや……だめ……」

 早く。早く……!
 急かる気持ちを抑え、百は何か言葉を紡ごうとする。このナイフは重みのないただの紙切れで出来たおもちゃだ。服に仕込んだ小型カメラで証拠現場を撮影はしているが、これはこちら側の強みとして持っておきたい。脅しとして使いたくはないのだ。もう時間稼ぎは厳しいよ、ユキ……。オレももう、限界だーー。

「ダアァァアアァリーーン!!」

 合言葉を叫ぶ百に、何のことだと狼狽える月雲了。駆け寄る足音が一つや二つではないと悟り、機械の中に紛れ込むように去っていく。同時に、けたたましいサイレンの音に包まれる。警察車両の到着だった。百はたくさんの人に彼女のこの姿を見させまいと来ていた上着を脱いではに着させた。
《20話へ続く》

>>2018/04/26
……悪役・了さんでごめんなさい。
合言葉でこの回が和めばいいなと思いました。