男が尻尾を巻いて逃げていった。半開きのドアを岡崎マネージャーがしっかりと閉め直せば、千は未だにロッカーから出てこない
に声をかける。
「もう大丈夫だから、出ておいで」
無反応。否、鼻をすする音が聞こえてくる。
そっと開ければ力なくもたれかかっている彼女がいて、いてもたってもいられなくなり腕を引っ張った。バランスを崩す彼女の体を受け止めれば、自らで優しく包み込む。
「怖かったね……もう来ないから。大丈夫だから」
大丈夫、大丈夫だ。
おだやかでやさしい声色で
の背中をとんとんとたたく。母親が小さい子供をなだめるように、やさしくやさしく。
「……う、うっ……どうして、ここまでしてくれるんですか……? 私は……っ」
Re:valeのファンでただの一般人なのに。
は彼らの好意がありがたくもあり、とても申し訳なくも思っていた。見ず知らずの自分にここまでよくしてもらって、居場所も与えてくれて、あの男から守ってくれた。私は彼らにどう恩返しをすればいいのだろう。もう返しきれない。
千は
の髪をすくように撫で、はっきりと告げる。
「それは、僕が折笠千斗だから」
折笠千斗。
それは、Re:valeの千の本名。
そして、忘れもしない
の大切な大切な高校時代の友人の名前ーー……。
ーー数年前。
始業のチャイムが鳴り響き、担任教師がやってくる。生徒が全員揃っているかどうかを確認し、名簿に記入する。連絡事項を簡潔に伝える。普段通りの光景だ。授業に備えるように厳しく言ったところで、1時間目のLHR(ロングホームルーム)の時間になった。
席の窓際後方で頬杖をついていた折笠千斗は、いかにも退屈だと言わんばかりに外の景色を眺めていた。
自分も、あの空を飛ぶ鳥のように羽が生えていたら。自由になれるのだろうか。
学校にいる毎日が退屈だった千斗は、教団に立つ教師の話は右から左へと聞き流していた。横にいるクラスメイトの女の子に声をかけられるまで、席替えをするから一人ずつ順番に前でくじを引くということを知らないまま。
結果、千斗は今の席から1つ後ろに下がるだけだった。何とラッキーなことか。移動も楽だし、何より、1番後ろの窓際という最高の席を用意された。スッと腰を下ろせばもう眠気がやって来て、このまま寝てしまおうとまぶたが閉じる寸前のところ、声をかけられた。
「折笠くん、よろしくね」
歯を見せてにっこり笑う彼女がまぶしくて、醒めてしまった。そうだ。彼女は
。クラスで、男女問わずに仲良くする人気者。ムードメーカーだ。
千斗は一言返すと黒板を見た。次の授業は歴史だった。
ああ、そうだった。教科書なんてハナっから持ってきていないんだった。授業の合間休みに彼女に話しかければ、「お安い御用です」とこれまたきらきらした笑顔で返された。
「ねえ、折笠くん。いつも教科書持ってこないんでしょ?」
「うん、そう。重いし」
「ふっ……ロッカーに置いておけばいいのに」
真面目そうに見えたが、案外そうでもないらしい。授業中にもかかわらず、こうやってひそひそ話に応じているのだから。はじっこにある落書きを見つけて思わず漏れてしまう。
「髪が生えたペンギン……っく、くく!」
「何だ折笠〜? 珍しく発言したかと思えば……!」
「あっ、折笠くん……せ、先生! 折笠くんは熱があってフランシスコ=ザビエルがそう見えたようなので、保健室に連れていきます!」
強制執行だ。
は千斗の腕を取って席を立たせると、そのままずるずると教室の扉へと向かっていった。
それから彼らは友達になった。
人間関係が疎ましく思っていた千斗にとって、友達と言える人間が出来たのも初めてと言ってもいいほどで。お互いに何でも言える「いい関係」だった。
放課後も時々近所のファストフード店やショッピングモールに出かけるようになった頃。ある日の昼休み、
にラビチャで「今日行かない?」と誘われた千斗は「いいよ」と即返した。掃除当番の彼女よりも一足先にカフェへと向かえば、数分後には息を切らしながらやってくる
が見えたのでその場で止まった。
「早かったね」
「ま、まあね……。全速力で来た」
カフェへ入れば奥の方へとすたすたと進んでいく。ドサッと音を立てて座る行動から、かなり体にきていたのだろう。カフェラテ2つと水を頼めばすぐさま水は用意してくれて、勢い良く喉を通っていった。
それからというもの、
は黙ったままだった。
頼んだカフェラテがやって来ても彼女は手を付けようとせず、下を向いたままで。千斗が話しかけようかとしたところで、口を開いた。
「私ね、自分の人生なのに決められてしまってるの。おかしいよね……自分の人生なのに。でも、抗うことが出来ない……情けないけど」
何を言い出すんだ。千斗は
を凝視する。
「……高校卒業したら結婚するの。専業主婦。働いたらダメなんだって。ふざけてるでしょ?」
「どうして……?」
結婚なんて好きな人と同意のもとでするものじゃないのか。
ここまで彼女を縛るのはどういった理由があってのことなのだろうか。思考が追いつかなかった。
「きっと、携帯電話は没収される。連絡が取れなくなる。それでも、ずっと私と友達でいてくれる?」
ああ、そうかーー。
彼女は不確かなものだけど約束という契りがほしいのだ。
「何をふざけたこと言ってるの? 当たり前だ」
「ほんと……?」
「
から連絡がなくたって、僕は
と縁を切ったりはしない。誰かが切ってもすぐに元に戻るよ」
「う、うん……! そうだね! 千斗とは“ズッ友”ってやつだし〜〜!」
「くっ……
、それ古いよ」
「そ、そんなことは……!」
付き合ってはいなかった。恋愛感情がないわけではなかった。このなまぬるい関係のままでもよかった。彼女とこうして他愛のない話をして笑っていられるのであれば。
《8話へ続く》