何事もないはずがなかった。甘かった。
は爪を食い込ませるほどの力で握り拳を作って必死に堪えていた。その姿に気付いたカオルは肩を叩く。
「落ち着きなさい。勝手に言わせておけばいいのよ」
どしゃ降りの雨にも負けないで歌う彼らのために言い返すことすら今の自分には出来ない。騒動にでもなったら大事だ。駄目だ、絶対に。酷い罵声を浴びせられてもそれにフタをするんだ。
は呪文のように唱えた。
耐えるはずだった。
だが、決壊してしまった。自分たちの目の前にいる男の中傷がぐいぐいと
にキズを作っていったのだ。傘をカオルに無理矢理持たせて雨の中に出る
。男の前に立ちはだかり、あくまでも丁寧な口調で反発した。男は気に食わなかったのか
を睨みつける。
「何だ小娘。俺に指図するつもりか、ああ?!」
黙り込む
。恐怖でそうしているわけではない。次の手を考えていた。下手に挑発してはいけないし、ただ正論を言えばいいわけでもない。数分前に呪文を唱えたばかりだというのに。びしょ濡れの
は頭が冷えることもなく、苛立ちのほうが勝っている。
「止めなさい」
彼女の頭上に傘がかかった。カオルだ。
「で、でも……! この人が!」
彼女たちが見えたのだろう。ステージから楽が心配そうな視線を送る。カオルは「見向きもせずに続けなさい」とアイコンタクトを送り返す。今、ここでTRIGGERの関係者が暴行事件だの起こしたら今していることが水の泡。否、それ以上だ。大惨事なのだ。復帰の計画ですら潰してしまう。
「ごめんなさいね〜。私の妹、ちょっと荒っぽくてね。TRIGGERの大ファンだったから、熱狂的になっちゃってるだけなの。だって、そうでしょ? チケットの倍率が高くてなかなかライブに行けなかったのに。それが、今夜、自分の目の前に急に現れるんだもの。生の歌が聞けるんだもの。ここは、この子の純粋に応援している気持ちに免じて許してやってくれないかしら? このとおりよ」
頭を下げるカオル。
の頭も押さえつけて二人で。かわいい妹のフリを徹底することに決めた。
「ご、ごめんなさい、お兄さん。私、TRIGGERが大好きで、熱くなっちゃって……。わ、わたし……っ、ひくっ……お兄さんに言葉の暴力をしちゃった……っ、ごめ、んなさい……っ、ひくっ……」
もちろん、泣いているフリ。彼女は全く申し訳ないと思う気持ちは無いに等しい。
「お、おう……悪かったな。十四、五の女の子を泣かせるつもりなんてなかった」
しめしめ。ひっかかっている。歳だって結構若く見られていて好都合だ。
は笑わないよう、俯いて泣いたふりを続ける。
「お姉さん、申し訳ない」
「いいのよ。この子も悪いのだから。ほら、顔上げなさい。行くわよ」
「バイバイ、お兄さん」
男の背中が小さくなるまで手を振る。視界から消えた瞬間、
とカオルは腹を抱えて思いっきり笑った。
「あんた、最高ね!」
「カオルお姉さんこそ!」
ゲリラライブは無事終了した。誹謗中傷を言う人もいたが、TRIGGERファンも中にはいて涙を流して応援してくれた。見込んでいた数は足を止めてくれただろう。カオルは手応えを感じていた。
一方で、楽は苛立っていた。一歩間違えれば騒動が起きていたのだ。その原因が作曲担当の
だ。身内がしてどうするんだ。とっ捕まえてお説教タイムだ。人が閑散としてしまった広場の後片付けをしていた
に「来い」と人気のないところへ引っ張っていく。ここなら大丈夫だろう、と解放すれば片腕で
を抱き寄せた。
「心配したんだぞ! もうあんなことは止めてくれ……」
「……っ! ごめんなさ……い」
色素の薄い楽の髪が顔にかかる。「無事でよかった」と消え入る声で。ハッとした楽は悪い、と
再び解放して向き合う。
「ハラハラしていた。歌うのを放り出して、助けに行きそうになったんだぞ。でも、堪えた。それをすると今までしてきたことが台無しになるから。姉鷺と目が合ったから何とかしてくれると察したが」
の頭をぽんぽんと幼子をあやすようにしてやると、手には濡れた感触があった。服を見やれば、ライブをする前と着ているものが違っている。靴は常に車内に置いてあるサンダルだ。何故着替えている? 姉鷺と一緒に傘をさしていたではないか。騒動の時だって。疑問が浮かんだ楽は彼女を問い詰めれば「つい……」と苦笑い。ああ、そうだった。彼女はそういう人物だ。ひとりで突っ走るんだった。だから、か。
「
、もうやるなよ」
「痛っ!」
デコピンを食らった
はヒリヒリする額を押さえながら、もう一度頭を下げた。
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